コラム7
 
カン紅茶を考える

前々回、この通信で紹介した『カルカッタのチャイ屋さん』という本の中で、筆者の堀江敏樹さんという方が、こんなような内容のことを書いています。曰く、

本来、お茶を飲むという行為は、単純に味だけでなく、お湯を沸かし、好みの濃さに調節し、カップに注ぐという一連の流れと時間の経過の中にも意義を見出す文化的なものである。

しかし、今やカンやペットボトルの紅茶の出現によって、それも脅かされている、紅茶と呼ぶのもはばかられる不味いカン紅茶を本物の紅茶だと誤解する世代が出現している、まったく嘆かわしいではないか‥‥。

確かに、自動販売機で売られているカン紅茶はたくさんあるけれど、日常的に自分で紅茶を淹れて飲んでいる我々にとっては、決しておい しいとは言いがたいシロモノです。

ストレートティーは茶色い砂糖湯みたいな味がするし、ミルクティーも似たようなものです。

ヨーロッパのコーヒー会社の人が、業務提携先の日本のカンコーヒーをのんで「これはコーヒーではない!」と言ったそうですが、基本的には、それと同じですね。

僕の外国での体験やメディアを通じて知る範囲では、世界で、コーラなどの清涼飲料水以外のコーヒーやお茶類をカンやペットボトルに入れて販売しているのは、日本だけです。

治安がいいので、自動販売機で売りやすいとか、日本人は忙しいとかいろいろな理由があるのでしょうが、恐らく外国になくて日本にしかない最大の理由は、味に対する感覚でしょう。

工業的に大量生産してカンに詰めたお茶やコーヒーがおいしいとは思えない、というのは極めて正論というか、まともな感覚で、そんなものは、本来の淹れ方からすれば邪道なやり方と言えるでしょう。

しかし、本物に比べたら味は落ちるにしても、そこそこうまくてどこでも飲めるカンは捨てがたい、という気持ちも日本人の僕には理解できます。(正直に言うと、カン紅茶は全部×な僕も、カンコーヒーの一部は若干支持しています。)

それに、世界的に普及しているティーバッグやインスタントのコーヒーだって、決して、スッゴクおいしいというわけではありませんからね。このような、いわば日本独特の光景をどう考えたらいいのでしょうか。

確かに、自分がとても飲む気になれない種類のお茶を、おいしいと言ってガブガブと飲んでいる姿はショッキングです。

でも、そのカン紅茶がなければ、多くの人たちにとって紅茶がもっと遠い存在であったろうことも容易に想像できます。

間口がケバケバしくて眉をしかめるようなシロモノても、大きく広げて、とりあえず中に入ってもらうことも大切です。

そうすれば、いつか建物の奥に入って、自分で紅茶を淹れるようになるキッカケになるかもしれません。そう思えば、必ずしもカン紅茶の隆盛を嘆くことはないのでは、と僕などは思うのですが‥‥。

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